
「さとし」の生い立ちと当ブログへの想いについて、まとめています。
それでは、いってみましょう。
基本プロフィール
まずは簡単なプロフィールです。

・出身地:富山
・年齢:30代
・仕事:職種はずっと設計
・趣味:お金の話 / ツーリング / 読書 / トレーニング / キャンプ
・仕事:愛知で自動車メーカー(TOYOTAではない)
・家族:妻、長男、次男の4人家族
・持ち家:新築有り
現在は、愛知で某自動車メーカーでECU部品設計者として働きつつ、プログラミングスクールで学習中しながら卒業しフリーランスとして活動しながら、ブログ記事をコツコツと執筆しています。
2020.02.29 プログラミングスクール最終課題発表が完了(実質の学習は完了です)
それでは、ぼくの生い立ちについてご紹介していきます。
どんな人生を歩んできた?

雪深い北陸の地"富山"で育つ
ぼくは、北陸の富山県 西部(石川県に近い)で生まれ幼少を過ごしました。
富山県は豪雪地帯として知られていますが、冬は凍った道も滑らず歩ける術が自然と身につく、そんな地域です。足の重心を地面に垂直にして歩くとか。(どんな、地域だよ!!)
そんな、地域で大工一家の父親と少しお金に口うるさい母親、そして不仲な姉の家庭で育ちました。
性格は、引っ込み思案で恥ずかしがり屋で内向的な性格でした。完全にモジ男君ww
全力で高校中退し、全力で大検からの理系大学時代
ポイントは以下の通りです。
- 高校中退
- バイク屋のオーナーとの出会い
- 大検予備校である先生との出会い
順に解説していきます。
高校中退
高校入学したはいいものの1年生の2学期で中退しちゃいました。
当時は、高校へ行く理由や毎日高校にいく事に疑問を感じ、答えを見つけられず高校を中退した記憶があります。
バイク屋のオーナーとの出会い
高校中退後は、しばらく"土方仕事"や"フリータ"を続けていました。当時、バイクに乗っていた為、整備や部品購入のために地元のこじんまりとしたバイク屋に通うようになっていました。
このバイク屋のオーナーと色んな話をしました。
話というより、ぼくの疑問に的確に答えてくれるオーナーでした。もう、キッカケは覚えていないですが、悩める思春期の少年のお悩み相談的な関係になっていました。
ぼくは"大学"を目指したのもこのオーナーとの会話の中からでした。結局、色んな話をオーナーとした結果、整備士を目指し専門学校へ行こう!!って決心。
ここがぼくの人生のターニングポイントです。
大検予備校である先生との出会い
専門学校を目指すためには、大学受験資格を取得する必要があることがわかりました。
早速、地元の大学受験資格の予備校(第一高等学院富山校)へ入学。
そして、2回目の人生のターニングポイントです。
この予備校である先生と運命の出会いがありました。当時、ぼくの色んな悩み相談にガチで向かい合ってくれた先生から、「専門学校よりも大学の方が選択肢が拡がる」と言われ、専門学校から大学進学へ切り替えました。
中学、高校もろくに勉強ができなかったので、とにかく2年間必死に必死に勉強した結果、理系大学(金沢工業大学)へ無事に入学できました。
勉強が苦手だったぼくが継続できたのも、予備校の先生方の生徒への想いやりの強さがとっても素敵な学校でした。
そして、高校中退したにも関わらず、予備校のお金も出資してくれずっと我慢させ続けた両親にもとても感謝しています。
好奇心の塊だった理系大学時代
小学、中学と勉強してこなったぼくは、とても好奇心が強い人間でした。
大学でのポイントは以下の通りです。
- 好奇心を満たせる大学環境
- 大学2年でカンボジアへ
- プログラミングに出会う
順にご紹介します。
好奇心を満たせる大学環境
大学では「人間情報工学科」に入部しました。
理由は大学に入る前に2回のターニングポイントで人生が変わった「人間」「繋がり」に興味を持っていたので。
この学科名は聞きなれない学部ですよね。
簡単にいうと、人間の情報処理を「ロボット工学」と「バイオ工学」で解明していこう的な学科です。
ぼくが卒業する時に、廃部となり「ロボティックス学科」と「バイオ工学学科」に別れてしまいましたがww
繰り返しますが、小学、中学と勉強しなかったです。その反動か、大学へ入学すると色んな事に興味を持って知識を習得し、勉強しまくり。「勤勉」って言われたこともありました。
当時は新しい知識を知る喜びがハンパなく、常に勉強していました。
プログラミングに出会う

勉強だけではもったいないと思い、大学の授業以外にもガチなサークルにも力を注いでいました。
そのサークルは、ロボコン(ロボットコンテスト)。
ロボコンでは色んなロボットが決まったルールの中競技を行いますが、僕たちチームはAIBOを使ったサッカーの試合に挑戦しました。ハードウェアはAIBOなので、主な活動はソフトウェア開発。
この頃からソフトウェア開発に強い関心を持つようになって、ソフトウェアの可能性にワクワクしていたのを今でも覚えてます。
気付いたら2回退職してた話
社会人でのポイントは以下の通りです。
- 会社員は"奴隷"と気づいた1社目
- 暴君社長に嫌気がさした2社目
- 大手企業に舞い戻った3社目
順にご紹介していきます。
会社員は"奴隷"と気づいた1社目
大学を卒業後は、大手企業グループに就職でき、「安泰だ~」なんて思ってました。
でも、奴隷のように時間の自由を会社に奪われる日々。
会社と家を往復するだけの日々。

この時、鬱にはならない性格だと気づきましたww
「新卒で入社した総合電機メーカーを4年目で退職した理由について」に詳しく書いてますが、当時の就業時間は朝(8:20)に出社し、夜(12:00)の終電前まで仕事する日々。
土曜日も自宅待機から出勤することも多々ありましたね。(会社のおもちゃか!!)
肉体的には若かったので問題なかったです。それよりも精神的な疲労からくる将来の不安を感じ退職。
退職後は、空白の6ヶ月があって、次の会社へ。
暴君社長に嫌気がさした2社目
次に勤めた会社は、従業員50~100人規模のWebゲーム制作ベンチャー企業です。
ただ、ベンチャー企業も1年間務めて転職。
理由は、毎日朝会で社長が暴言を社員に吐くという謎の会社でした。
担当しているWebゲームの売り上げが予定より下がると、社員に対し「死ね」と発言するような暴君社長でした。
ぼくは、そんなにドMではないのでさっさと転職。
この時まで、理系エンジニアとして”技術”と自分の軸に拘り働いてきました。
でも、それじゃダメだなと思い始めたのがこの頃から。
大手企業に舞い戻った3社目
次の会社は、やっぱり大企業の"安定性"を求め、ある自動車メーカーのECU(車載コンピューター)の設計者として転職しました。
当時は、携帯電話のソフトウェア開発感覚を買われ入社できました。
現在も3社目の企業で働いていて、仕事中は思考停止の状態で仕事を淡々とこなしています。
プログラミングスクールへ
2019年3月にプログラミングスクール テックエキスパート名古屋50期として参加しました。
もちろん、家族もいるので働きながら平日夜中と週末の時間を使いながら、スキルを積み上げです。
2020年2月に最終課題発表を終えました。
家族について

こんな僕ですが、大学時代から付き合っていた"み太郎"(今の妻)と結婚し、清水家にも2人の可愛い息子達が加わりました。
清水家のメンバーの詳しい紹介は「僕の大切な家族を紹介してみようか」に書いています。
子供たちは2人とも男の子なので毎日大変。
現在は一軒家も購入して新築ローン貧乏状態。
って事で、何とかこの会社生活、極貧生活から抜け出して見せます。